大学教員時代の忙しい日々⑤ 日常にアートを溶かせ
5月26日 チャリティイベント

藤沢市内で開かれた阪神・淡路大震災救済イベントにライブ&ペインティングで参加した。

震災のチャリティと聞くと「まだやってるの?」と言う人間がいる。新聞もテレビも話題にしなくなったからだ。マスコミのいい加減さもあるが、とんでもない!これからのほうが大事なんだ。それをわかってて地道な活動をしている人は数多くいるんだ。

たぶん15年つづけないと何も解決しないだろう。ボクは自分の仕事の中でできる限りのことを継続していこうと思っている。

6月5日 ひさびさの画廊巡り

それにしても日本の画廊は入りづらい。入り口が狭くって敷居が高い。客を拒否するかのような閉鎖的な雰囲気がある。だから自分で個展をやる場合も、買い物カゴを持ったおばさんたちでも気軽に入れるデパートの催事場や公共のオープンスペースのほうが好きだ。日常の生活の中に溶け込んでこその美術のはずなのに、日常とは別のものという意識で美術作品を扱おうとしているからこうなってしまう。

勇気を持って入ってみても、作家がいて、同様の態度で客を見る。見せようという姿勢がまるでない。「いい作品ですね」と誉めると、こうだ。

「そんなことないですよ」

アメリカの画廊なら作家がポートフォリオを持って飛んできて、自分の考え方や作品のポリシーを売り込むぞ!屈託のない自己紹介、素直な自慢。とても好感が持てる。「すごくおいしいから食べてください」という姿勢。日本のアーティストに一番必要なのはそれだ。「そんなことない」なら展示するんじゃない!

6月10日 大学の就職ガイダンス

大学というところは自ら学んだことを自ら評価するところだ。だから成績のトップとビリの差は1ミリもない。けれども卒業と中退の差は富士山の高さ以上ある。なぜなら履歴書は本人の事情に関係なく一人歩きするものであり、自分の意志での中退でも世間はやめさせられたと認識するからだ。そもそも自分で決めて入ったんだろ?「自分に合わないから中退しました」なんて、「大学選びすら、ちゃんとできませんでした」ということを露呈しているようなものだ。たかだか数年間の大学生活。そこでやりたいことが見つからなければ外で見つければいい。そんな気概のないヤツは就職なんかできない。…という話をした。

6月11日

ある仕事の打ち合わせの後、雑談していたら、こんなことを言われた。

「これくらいの予算で何かいい絵ないですかねえ?」

職業がら、絵を買いたい人からしばしば同じように相談されることがある。ボクは心の中でこう答える。「アナタには買ってほしい絵は一つもない」

絵を買うとはどういうことか。自分自身の審美眼と価値基準を高めることだ。自分でいいと思ったから買う、それが第一条件であり、それ以外にない。欲しいと思った作品が手の届く値段だったら買いだ。自分の足で探して、ほんとに欲しいと思ったら、仮に高くても手に入れようとするはずだ。

逆に「他人がいいと言っている」「将来、値が上がると言われている」なんて理屈なら買うんじゃない。だって、その絵を買って、見るのは自分だろ?他人に自慢したいだけなら買うな、だ。

絵を購入して持っている日本人の多くは、絵の大きさより大きな値札を貼りたいんじゃないかと思う。その絵の価値を値札でしか判断できないなんて悲しい。「私、絵はわからないから」と言う人。それはわからないんじゃなくて、絵を感じようとしてないだけ。感じようとしないで理屈で見ているなら、一生わかるわけがない。

(1988年 旺文社「月刊私大蛍雪5月号」掲載記事)