CREATIVE ILLNESS

クリエイティブ イルネス(創造の病)の表現行為への可能性

(2014年 桑沢デザイン研究所 研究レポート「クリエイティブ イルネス」より抜粋)

障害者の芸術教育

30年以上に渡り、障害者、健常者に参加してもらうワークショップを様々な形で展開して来た。その多くのワークショップは、身体障害者及び知的障害者、あるいは障害者と健常者を共同制作により結びつける形をとったワークショップが中心になって来た。

おーくん・あきら スレマン氏の描画補助器を試してみる


イタリアの視察で授産施設を訪れた時に紹介していただいたスレマン・アブデラ氏(ダウン症候群、L’AIAS絵画指導者)も手で絵画制作を出来ないため、スレマン氏自身が考案した頭に装着する絵画補助機(左写真)により見事な油彩作品を制作している。

(アブデラ氏との対談はこちらへ…)

また、私のワークショップでは両手にハンディキャップのある子供が口に筆を加えて、魅力的な水彩画を制作している。知的障害者の中には、驚異的な集中力でカラー粘土による細かいディテールの立体作品を生み出す人もいる。
両者は何らかの形や行動により、我々が認識しやすい障害であるため、指導の要領や、体験を積むことで制作、活動の流れや最終的な落としどころが予想しやすく指導も経験値で解決する部分もある。

現在更に研究、治療、処方が必要とされるのは、鬱病、パーソナリティー障害、双極性障害、アスペルガー症候群など、「気分障害」の範疇で捉えられている障害ではないだろうか。これらの障害は、身体的・知的障害に比べて、病状がかなり見えづらく、その思考や行動、反応等が解りづらく、多くの誤解を一般の人々や社会に与える事になる。
これらの障害の治療機関は精神科、神経外科などで行われてきたが最近は「心療内科」の名称で治療にあたることも多くなってきている。

気分障害は、「心の病気」「メンタルな病」という括り方をされるが、その多くは極めて「フィジカル」な病であり、脳機能、脳内伝達物質が関係していると言われている。その病因は、遺伝的なものや子供の頃のトラウマなど、内因・外因を含めて様々な臨床報告がなされている。

知的障害においては、アウトサイダーアート、アールブリュットの範疇に健常者を含めた作家たちがカテゴライズされている。
「アールブリュット」はフランス人画家ジャン・デュビュッフェによって作られた仏語「Art Brut」で「生(なま)の芸術」という意味である。既存の美術や文化潮流とは無縁の文脈によって制作された芸術作品を示している。
その後、イギリス人著述家ロジャー・カーディナルが「アウトサイダーアート」と英語表現に訳しかえた。

特別芸術の伝統的あるいは規制的な教育・訓練を受けておらず、名声を目指すこともなく、何にもとらわれることなく、作者自身が自然発生的に表現した作品といえよう。加工されていない生(き)の芸術とも言い、伝統や流行、正規の教育などに左右されず、自身の内側から湧き上がる衝動のままに表現した作品には多くの人が魅了されている。

「純粋行為」とファインアート

これは、桑沢デザイン研究所での基礎造形教育の幾つかの課題に見ることができる。執筆者の興味ある研究対象として「純粋行為」があるが、本来ファインアートは、デザインと異なり、内なる発動に揺り動かされて表現となっていくと考えられる。

「芸術はわれわれが用意した寝床に身を横たえに来たりはしない。芸術はその名を口にしたとたん逃げ去ってしまうもので、匿名であることを好む。芸術の最良の瞬間は、その名を忘れたときである」このジャン・デュビュッフェの言葉が、アールブリュットの定義ととらえられる。本来デザインも最終的には匿名性が商品を際立たせる筈であるが、今の多くのデザインが詭弁にデザイナー本人を語ることも多い。

アールブリュットの制作者たちは様々な社会的な操作や適応システムから自由であるということは、いわゆる精神病院と呼ばれる病院の患者、孤独に生きる者、社会不適応者、受刑者等多様な「アウトサイダー」たちといえる。
これらの人々は、作品の発表を考えず、あるいは度外視して、孤独の中、独学で創作活動を続ける。世の中の様々な美術様式や歴史、アートを通しての社会的人間関係に無知あるいは無関心であることが、逆に解放された創造性をつくり出し、究極を感ずる作品を生み出す要因になっているのではないだろうか。

ジャン・デュビュッフェは「アールブリュット」の提唱者だけでなく、アールブリュットコレクターの草分けでもある。1971年には彼のコレクション3000点以上をローザンヌ市に寄贈し、1979年に初のアールブリュット専門の収蔵館が創設された。
現在収蔵作品は35,000点以上にのぼり世界中から年間45,000人の観覧者が訪れている。それほどアウトサイダーアートには引きつけられる魅力がある。ただ、アウトサイダーアーティストのカテゴリーに括る範囲は難しく、正規の美術教育を受けていたり、社会生活の中に普通に組み込まれているいわゆる「インサイダー」の人々の中にも作品としてアールブリュットを感じるものも多い。

(ジャン・デュビュッフェ 1901/07/31~1985/05/12)

前述の身体的・知的障害を持つ人々に対しては社会の中に授産施設、養護施設、障害者支援等公私含めて多様な受け入れ体制が出来つつあり(それでもまだまだ不足している)創作やそれによる自立支援も充分とは言えないが続けられている。

しかし、社会の中で一見健常者にしか見えず、健常者として扱われ、本人の身の置き場を失っている気分障害等を持つものも多い。そして、そういう人々の中に多くの美術、音楽、文学、発明発見等を残した人々がかなりの割合で存在している。鬱病、パニック障害、パーソナル障害等何らかの精神疾患といわれるいわゆる気分障害であったろうと言われる人物は、ごく一部をとりあげると

カート・コバーン(米・ミュージシャン)/ウインストン・チャーチル(英・政治家)/エブラハム・リンカーン(米・大統領)/チャイコフスキー(露・作曲家)/シューマン(独・作曲家)/宮沢賢治(童話作家)/三島由紀夫(小説家)/夏目漱石(小説家)/北杜夫(作家)/中島らも(作家)/萩原流行(俳優)/高島忠夫(俳優)/足利尊氏(武将)/太宰治(小説家)/小川広(アナウンサー)/桂枝雀(落語家)/岡田有希子(タレント)/フランシス・コッポラ(米・映画監督)/ティム・バートン(米・映画監督)/メル・ギブソン(米・俳優)/ロビン・ウイリアムス(米・俳優)/ジム・キャリー(米・俳優)/アイザック・ニュートン(英・哲学者)/トーマス・エジソン(米・発明家)/オードリー・ヘップバーン(英・俳優)/ゴッホ(オランダ・画家)/ベートーベン(独・作曲家)/ミケランジェロ(伊・美術家)/チャールズ・ダーウイン(英・科学者)/アルベルト・アインシュタイン(独・物理学者)/スティーブ・ジョブス(米・実業家)/エドワルド・ムンク(ノルウエー・画家)等

もちろん、古い時代で精神医学の研究が充分でない時代の人物についてはこれらの人々の生活歴や証言等を含んだ病跡学(パトグラフィー)的な観点から提示したものであるが、これ以上の潜在人数が多数いることになる。

これらの人々は良い形で社会から逸脱した部分を持ちながら才能を開く結果となったが、多くの気分障害者は、社会の中にいるのに、逆に通常の生活と共に才能も埋没していってしまうことが多い。しかし前述した通り、これらの人々の中に健常者には見られない驚異的な集中力や持続力でなにものかを生み出す状況があることを見逃す訳にはいかない。

インサイダーアートとアウトサイダーアートの境界

インサイダーアートとアウトサイダーアートの境界についても、近年様々な議論がされている。アウトサイダーアートが狭義に障害者、特に知的障害者の作品を指していうことが多く、一般的に知的障害や精神障害の作品、精神病院で行われるアートセラピー(芸術療法、クリエイティブ。セラピー等)などで表現されたものと考えられがちである。それだけでなく、芸術作品で生計を立てたり、美術団体・協会等に所属や発表することなくセルフ・トート(独学)で作品を制作し続けた健常者、刑務所等で初めて絵画を制作し始めた人々などの作品もアウトサイダーアートの範疇に入ると言われる。しかし本人が内からの衝動で純粋に表現した作品を、本人自らが発表の場や機会を求めたり、それを実現した段階で、作品は社会の中で評価されるかどうかは別にして、社会の中に意志的に存在させたことでアウトサイダーアートでなくなるのではないだろうか。また、本人の意思に関わらず、第三者が公開したことにより「アウトサイダーアート」という名のついたインサイダーアートに変化してしまう。
結果「アウトサイダーアート」は「エイブル・アート」、「ワンダー・アート」、「ボーダレス・アート」など様々な名称のもとで、企業や公的機関等が作家と作品を支援する動きが活発化している。

しかし、これにプリミティブアート(原始的造形芸術、未開民族の造形・絵画等)やフォークアート(土地固有の文化が生んだアート)農・尚・工業等の労働者によって制作されたもの)なども混在し、今後の整理が必要だろう。そしてどのタイトルも現社会側の評価を付けていく方法としての名称になってきている気がする。平面作品で、アウトサイダーアートの代表的作家として評価された中でヘンリー・ダーガーが著名であるが、彼は300点以上に及ぶ膨大な挿絵を含む15冊1万5145ページからなる絵画を残し、死後発見されて世界に衝撃をあたえた。彼自身は病院の掃除人として働きながら凡そ50年間制作に励み、その間一切発表することもなかった。立体作品ではフランスの郵便配達人であったフェルディナン・シュバルが33年の歳月をかけて自力で巨大な城塞を建設した。その異様で執着の積み重ねのような造形物には圧倒される。

(ヘンリー・ダーガー 1892〜1973)

(フェルディナン・シュバル 1836〜1924)

これらの作家はそれぞれ別の生業を持ち、それぞれ作りたいから作っただけである。その段階では、まさにアウトサイダーアートの範疇にあった筈であるが、その作品の魅力もさることながら、やはり、通常の芸術家には見られない彼らの彼らの表現過程に見られる行為をや姿勢に魅せられ、社会に引っ張り出されたことでアウトサイダーアートではなくなった感がある。

「気分・精神障害」から創造への開花

フロイトやユングの生涯を詳しく研究していた精神医学者エレンベルガーは、創造的な思想や心理を発見する人々が長年の神経症状態を経験していた事実を認め、それを「創造の病」と名付けた。特に鬱病は「クリエイティブ イルネス(創造の病)」だという。このことは河合隼雄氏も提唱していることである。鬱病はどんな人間にも突発的に発病するものであるが、責任感があり、真面目で能力の高い人間がかかりやすいともいう。鬱病は、決して停滞した状態ではなく、次の創造政策へのエネルギー充電状態ではないかと推測する専門家もいる。それは精神疾患の状況時がアイディア創出の潜在期間と考えれば、既にアウトサイダーの範疇に収まらない芸術家草間彌生が感じて来た幻聴や幻覚等も制作への準備期間といえないだろうか。

子供の造形や街角の落書きなどに目を向けていたピカソやクレーをはじめとする旧態依然の美術界を嫌悪しつつも、あえてその中で生きていた芸術家たちにも、真の芸術を求める強い風潮があり、その中でもアウトサイダーアートは社会的視点も加味されながら芸術の反権威主義の象徴をして、さらに芸術の根源的意味を捉え直す契機として誕生したとも言える。そして逆にこの枠外の制作者たちは社会の偏見に曝されることになる。

「精神」というドキュメント映画の監督・想田和弘氏(彼自身も燃え尽き症候群だった)は「人間は精神障害であれ普通の人であれいわゆる全人的に<健>状態の人はこの世に1人もいない」と言う。「健常」と「障害」の間に横たわるグラデーションの中に全ての人はいるということである。また芸術活動そのものが「障害は個性」という考えを強化する傾向にあるが、この心理的側面は障害者の生活上の困難とは別問題であり、結果その障害が創作エネルギーのモチベーションになろうと関係ないのである。これは他の「創造の病」を持っていたと言われる世界的な芸術家ゴッホや草間彌生らが障害者芸術の枠で語られることはほとんどないことで理解出来る。

精神障害の芸術を巡る状況は、精神・気分障害者に対する評価を社会的に上げていったが、障害者の疎外環境を改善するという意識は見られない。障害をせっかく創造・発見へのエネルギー貯蔵の場と社会が認めながら、その作家の障害は別のところで判断されることになる。さらにいえば産業化と効率化を重視するようになって、障害者は能力を持たないものとして社会から隔絶される風潮となった。そこへ社会的包容力を拡大しながら差別意識を乗り越えていく「エイブルアート」運動が起こったが、ここから障害者が自分の作品に望む望まないに関わらず、「個の発信」が周囲からサポートされ著作権管理等にまで進んでいることに危惧を感じる。

現代美術家の和田千秋は障害児の親として「全ての人は障碍者である」「いつ病気や事故で障碍を負うかもしれないという意味では人は全て潜在的な障碍者である」と提唱している。彼は芸術表現を通じて障碍に対する主に健常者側の意識を揺さぶっている。(彼は「障害」ではなく「障碍」と表記している)健常者と障害者が地続きであり、障害と無関係な人間は皆無であることを提示している。

制作作品<制作過程>

アールブリュットやアウトサイダーアートが障害者の作品を重視し商品化にまで発展してきた。
世界的な活動を展開している「工房しょうぶ」(鹿児島)は刺繍の分野で斬新な作品を生み出していて、NUI・PROJECT としてアメリカのクリエイティブグロースアートセンターや東京都庭園美術館で障害者たちの展覧会を行ったが、色面が立体として浮き上がる程に差し込まれる針と糸、その行為とこだわりの集積と集中力が、見る者を圧倒する。これを工房しょうぶの代表福森伸は「<縫う>という行為そのものが素材の持つ可能な限りの<強いできごと> を出現させている。それは作者が<創り出す作品> より<創り出す為の時間と行為>に幸福を感じているから」と表現している。それはピカソが目指した子供の絵画であり、本来の「芸術性」といえるかもしれない。ここで前述した地続きの意味で、子供、創作者(芸術家?)、障害者が繋がってくる。

(工房しょうぶ)HP

表現病理学は狭義に芸術表現を対象とするが、例えば評価を受けた作品を理解しようとする場合、それを生み出した作者そのものに迫ろうとする。つまり作品の意味を作者と言う人間を通して理解しようとする。そして作者の伝記 (biography)等に気分障害等の病理現象を確認出来る場合、その特異な病理点を手がかりに表現病理学を使いこの人物を理解する可能性が出てくる。障害者の制作姿勢やその結果である作品を照らし合わせることで、治療としてのアートに更に繋がっていく気がする。障害者が何かを創作する直前のマグマ貯蔵と噴出後の制作状況、そして成果物に寄り添うことで、気分・精神障害者の苦悩を含めた心身状態を掴むことが出来るのかもしれない。

NPO法人「日本障害者芸術支援協会」の設立

(NPO法人 OKUNファンデーション・日本障害者芸術支援協会のページはこちらへ….)

能力が傑出している状態というのは、その能力を支える反対の偏りとのバランスによって生み出されているともいえる。その反対の「偏り」にあたるものが障害なのかもしれない。能力が傑出している人はそれ以外のことには恐ろしく未熟だったり人格のバランス異常や極端な劣性があることも多いと言われる。この対極的な構造を持った障害者の中に多くの芸術家、発明家、政治家、企業家が含まれてくる。ユングの「<闇・影>は<光>によって生まれるだけでなく<光>を支えているのも<影>である」という言葉が印象的である。障害はなければその方が良い。しかし障害を持ちたくて持った訳でもない。そういう中で何かクリエイティブなものに運良く入り込めた障害者は幸運だが、障害を持ちながら、かたや自分の想像以上の能力を秘めたまま人生を終える人々も多い。 

10年前、障害者芸術支援協会がまだ任意団体だった頃、盲目の写真家の展覧会を企画・開催した。今考えれば、この「盲目の写真家」という人目を引くキーワードを売り物にして展示を開催したところは否めない。しかし、開催後観覧者からは「風を感た」「波の音が聴こえた」など写真から発する視覚以外の感覚を呼び覚まされる事実が残った。盲目の写真家は目以外の四感と彼の中に隠されていた第六感で作品を撮り続けていたのではないだろうか。
一番ほっとしたことは写真家自身が観覧者の声を聴いたことで大いに喜んでくれたことである。傑出した才能を持っている人は何かを犠牲にしてその高みに辿り着いている。彼は「盲目」というハンディキャップにより残った自身の能力を集めて創作に挑んでいたに違いない。彼の場合は視覚障害という姿に見える形のものである。そしてその後目は見えないけれど写真を撮りたくて撮っていた1人の障害者を社会(世間と言ったほうがいいかもしれない)に引っ張り出した意味や疑問を自らに投げかけることになった。

最近ではアウトサイダーアートと他の展覧会芸術の境界がますます消失しているとも言われている。しかし歴然と「アウトサイダーアート」というキーワードで社会に披露する姿勢は変っていない気がする。10年前の写真展は知らずと同じことをしていたのではないだろうか。 それは健常な鑑賞者が傍観者として無自覚に障害者を他者化するきっかけになったかもしれない。障害者の芸術作品は、自分はここにいるという作者の叫びである。授産した作品ではなく、精神的必然性を伴う能動的な行為である。作者は作らざるを得ないという情動により創造しその情動の強さが作品の強さや魅力になっていく。特に気分・精神障害者は表現者としてその弾みが大きい。

病跡学は活躍した人物の研究から端を発した学問である。歴史上の人物の生活史を通してその人が生きた歴史の中で、彼らが生み出した作品に影響を及ぼした個人の精神的背景を研究して、その作品や彼らが生きた時代の環境を理解することが出来る人間学である。ランゲ・アイヒバムの著名人78人の研究によると、それら偉人と呼ばれる人々の80%以上に精神疾患・人格異常があったという。そこで、現在障害に苦しんでいる人々の現時点までの生活史や社会環境を踏まえて、彼らの能力を見つけることが出来るのではないだろうか。この考えをもとに、多く沈んでしまいがちな気分・精神障害者の創造を含めた能力を掘り起こしたり、総合的な治療への誘 (いざな)いや、サポートの出来る協会を考えて来た。特に法人化することにより、もともと基本となる活動資金がない我々が活動していく為の公私含めた助成を受けやすくする狙いがあった。また最初にも述べたように、見えやすい身体障害や知的障害に比べて見えにくい気分・精神障害を受け止める公的機関が殆どないことも手伝ったといえる。

現在大学等高等教育機関でも鬱等の気分・精神障害の学生が増えていると言われているが、それ程昔と割合が増えているとは個人的に思えない。多く感じるのは、気分・精神障害等の病名の分類が明確になり、また処方薬や治療の進歩もあり以前よりは疾患者が前面に出て来ている感じがある。それは好ましいことだと考えている。これらの学生への有効な指導はやはりセカンドオピニオンを恐れず自分に合う主治医を見つけて充分な治療・処方を奨めていくことが大切かと思われる。その部分のサポートも継続しながら、それぞれの障害者に見つけられる才能や可能性を引き出すことの出来る NPOにしていきたい。 特に気分障害者はその症状をはっきりと自覚しなかったり、自分に診断された病名を他の病気以上に認めたがらない。しかし、これは他の病もそうだが、 自分の病名を正確に知り、認めることが安定した治療や自身の生活のベースになる。病名をきちんと認めれば、あとはそこに寄り添う何らかの方法を見つけやすくなると思う。 

ゴッホは癲癇質であったという病跡学的な報告があるが、その癲癇質の執着気質から来る絵画的な特徴として「ひまわり」という一定のモチーフへの愛着があったとされる。病者が持つ独特の性格・行動傾向や特殊な体験は病者自身の中に秘められた才能に掛かると見事な作品へと変化する。 

我々の協会は働きたくても働くことの出来ない、あるいは働く・動く気力さえ失ってしまうことの多いこの病者の就労支援をするつもりはないし、難しいことだ。彼らが動き始めるモチベーションとなるはずの内なる能力や才能を見つけ引き出すことが重要課題である。特に「芸術支援協会」と唱ったのも、気分障害等の病者の多くに「表現」という能力とそれに伴う行動エネルギーが隠されていると信じているからである。 

逸脱した表現能力を持つ人々の特徴を研究すると

●常識で判断せず、一般常識を常に凝った目で見る。
●最後までやろうとする信念あるいは執拗さ。
●感性や感受性が鋭すぎるため、気分障害や神経症等の発症気質がある。 
●物事の思考視点が世界、宇宙視点である。(俯瞰する)また自分を軸とした物の見方をしない(自己の存在が薄い) 
●一般と幸福の価値観が全く違う。 
●自分を含め、人間がとても小さい存在であることを強く理解している。
●自分の生きる役割を認識し、ある意味では強迫観念に支配されている。
●尋常ではない集中力をみせる。
●正常と異常の境界線、つまりパラノイア境界を知っている等

しかし、多くの才能ある人々がこの境界線に立ち続けて表現をしていくことは難しく発病してしまうことが多い。彼らにその疾患を明確に実感・認知してもらうことで、もう一度彼らの豊かな表現能力を花開かせることが可能だと考えている。 

心理学者の小山高正氏によると、多くの病気は遺伝と環境の複雑な相互関係の上に成り立つと言い、これは精神疾患には更に大きな要因となってくる。気分・精神障害は病気かという議論の中で「近年、精神医学の分野は甚大な変容を経験した。研究の焦点が心から脳に移り(例えば統合失調症及び双極性障害は脳の扁桃体と海馬等の縮小が見られる)・・・ 同時に、職業も非適応的な心理プロセスに基づく精神異常のモデルから、医学的な疾病に基づくものへと変化した」「創造性でいえば、有名なアイオア作家クラブのメンバーの80%は、何らかの気分障害を経験したことがあり、分裂病患者の子供たちの20%が音楽に並外れた能力を示している」と言う。「確かに気分障害や分裂病は人生を破壊しうる病である。しかし極めて創造的でクリエイティブな分野で成功する者も多い。分裂病と双極性障害は人間の最高の状況と最悪の状況を合わせ持っているように思われる。最悪の状況を緩和する方法が解れば、気分障害・精神疾患者は世界を豊かにする為に多大な貢献をすることが出来るだろう」(英国分裂病協会顧問 ディヴィット・ホロビン)。最高の状況を見極め疾病者からそれを引き出す方法を研究することも協会の責務のひとつかもしれない。人間の脳「精神」の光と闇はそれぞれが単一に独立して存在しておらず、ひとつの働きの二面性である。それは「陰陽の働き」といえるだろう。それはどちらも必要であり、どちらかが優れた存在というものではなく、相反する2つの性質が合わさって全体として一つの作用になる。特にクリエイティブな仕事と精神疾患は背中合わせなのかもしれない。

影が光を支え、裏が表をつくり、病気が健康を理解させ、悲しみが喜びを教えている。気分・精神障害になってしまったからといって、 全てをマイナスに捉える必要はまったくなく、病を知り、的確な治療を施しながら、その中の隠れた能力を引き出し、共に生きていくしかないし、そ れが先々生きる意味を教えてくれるかもしれない。 

参考資料
 ・「創造の病・・・天才たちの肖像」福島章新曜社
 ・「精神病とともに生きる」 ビクトリア Eモルタ星和書店
 ・「天才の脳科学」 ナンシー・C・アンドリアセン青土社
 ・「人はなぜ病気になるのか:進化医学の視点」 井村裕夫 岩波書店
 ・「パラレル・ヴィジョン- 20世紀美術とアウトサイダーアート」 モーリス・タックマン、キャロル・S エリエル 淡交社
 ・「アウトサイダーアート現代美術が忘れたく芸術>」 服部正 光文社
 ・「精神病者の芸術性」 ハンス・プリンツホルン(1922年)
 ・「精神病とモザイク」 相田 和宏 中央法規
 ・「無敵のハンディキャップ」 北島行徳文春文庫
 ・「日本の障害者の歴史」 花田 春光 (財)日本障害者リハビリテーション
 ・「天才と分裂病の進化論」ディビッド・ホロビン新潮社
 ・「天才と狂気」チェザーレ・ロンブロゾー(1864)
 ・「天才 創造性の秘密」W, ランゲ・アイヒバウム みすず書房
 ・「なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか」 藤原 智美 詳伝社
 ・「偉人たちの黒歴史」 偉人の研究会 彩図社
 ・「不安の真理 安心の真理」 加藤 諦三
 ・「ロゴスに訊け」池田晶子 角川書店
 ・「絶頂美術館」 西岡 文彦 マガジンハウス
 ・「こころの天気図」 河合 隼雄 毎日新聞社

 ・(財)たんぽぽの家
 ・NPO法人「花の花」
 ・工房「まる」
 ・ギャラリー TOM
・工房「しょうぶ」
 ・NPO 法人「エスタスカーサ」
 ・アトリエ ブラヴォ