面白がって生きるということ

168月 - による mijomijo - 0 - ART WORKS DRAWING ESSAY

 

僕の絵描きとしての活躍(?)の最初のピークは小学校の頃だった。

小学生の頃、絵を描くことは僕のライフワークのようなものだった。イーゼルは拾ってきた材木で作った自作、キャンバスは広告チラシの裏側。猫、コップ、ミカン、それに鉄腕アトムが僕の被写体だった。画家気取りで、水彩絵の具を水に溶かないで油絵のように描いていた。自宅の一畳ほどの床の間が、いつしか僕のアトリエになっていた。

親戚や知り合いのおとながくるときは作品を引っぱり出して飾った。「お前は絵がうまい」とおだてられ、絵描きになることが僕の夢になっていった。6年間で150点くらい描いただろうか。

絵画教室には一度だけ行ったことがある。けれどもその先生が描き方をいろいろと言うのが嫌で、一度でやめてしまった。こういうものはこう描けなんて、そんな描き方なんてどうでもいいことだ。今でもそう思っている。

中学校では学年で常に5番以内の成績の優等生だった。絵からは少し離れていた。要領が良かったし、不良連中とも仲が良かったから、悪い事は一通り経験した。ただ、後でその不良連中に聞いたのだけど、「それで大久保は舞い上がってしまうだろう」という理由で女性だけは経験からはずされていた。

有名進学校だった高校ではいきなり劣等生になった。陸上、合唱、美術とクラブ活動に夢中だった。しばらく忘れていた絵を描くことにふたたび触れ、デッサンがおもしろくなった。当時、先生からは三流私立大学も無理と言われていたけど、プライドで東京芸大を受けて、一次のデッサン、二次の油絵と合格。けれども三次の筆記試験で見事に落っこちてしまった。いかにひどい学力だったかが分かるだろう。

入れる大学がなくて浪人することになったけどこっちは貧乏だったので私立には行けない。国立の美術専門学部を探したところ、あった。その年にできたばかりの筑波大学芸術専門学群。それでも筆記試験のための勉強はほとんどしなかったが、美術系予備校に潜り込んでデッサンをして、ちゃっかり先生の批評までいただいていた。それからアルバイトは何でもやった。道路工事、バーテンダー、ケーキ屋の店員、チラシ配り、ぬいぐるみショー、男性バスガイド…。

筑波大学の入試は、筆記試験のマークシートを配列の美しさを重視して塗りつぶすという、実技とともに芸術的なセンスで合格できた。

この第一期生の頃は大学側にも、成績よりもユニークな学生を取りたいという気持ちがあったようだ。実際、僕の大学生時代は同級生も含め、かなりユニークだった。当時の先生が「一期生が一番おもしろかった」と言っていた。今でこそ珍しくないが、仲間と株式会社を作って筑波のタウン誌を発行して金儲けしたり、デパートやメーカーをまわってスポンサーをつけて何度か個展も開いた。

ユニークで行動的だったのはいいが、問題は卒業制作。3年生のときの個展の作品をそのまま提出しちゃった。要領の良さは買えるが、肝心の提出日をまちがえて未提出となり、臨時教授会まで開く大騒ぎになってしまった。

それでも何とか無事卒業した僕は結局、政府の仕事で中米に行くことになる。この2年間は自分の人生の中でとても大きな経験になった。中米の話はたくさんありすぎるので機会をみて話そう。

 

自分が大学で教える立場になって、感じることは多い。今の学生は成績と出席を異常に気にする。「先生の講義、私はあと何回休んでも大丈夫でしょうか?」「今日提出の作品を明日出したら何点減点されますか?」なんてことを平気で聞きにくる。これが失礼なことだというのが分かってない。そもそも作品の提出なんて明日でも明後日でも、作品が、待たせたなりのクオリティならそれでいいわけなんだよ。

当時は、成績どころか就職のことすら考えなかった。あの頃の学生は芸術系の学生に限らず、多かれ少なかれ僕と同じようなものだったと思う。

君たちはもっと違うことで悩むべきだ。人間って?オレたちって?人生って?みんな、考えることを避けてはいないか。「どうしてこうなるのか」を考えることが一番大切なんだ。

この年齢になって分かったのは、お金を稼げることにはそれほど意味はないということ。たとえばどう稼ぐか、なんていう創意工夫が一番楽しいことなんだよ。金が目的なんて馬鹿げてるし、手段として金を使えば金はそれほどいらないものだ。

みんな、もっと面白がって生きようよ。世の中けっこう捨てたものじゃないぜ。