自我はあっても自己がない

208月 - による mijomijo - 0 - ART WORKS BOX ART ESSAY

 

学生に教える立場の仕事を始めた頃、俺は30歳前で、学生である彼女たちとまったくギャップのない時代だった。仲間という感じだった。それが「変わってきたな」と思ったのはここ最近。ほんとに急激に変わってきた。エイリアンのように、明らかに違う人種が現れはじめた。

いつの時代も「近頃の若い者は」的なことは言われるものだし、それ以前は、回りが「変わった」と言ってても「本質的には同じだよ」と言ってきた。だけれども、回りの人たちが言っていたように、それを認めざるを得なくなった。

ギャップ。それは自分が年を取ったというギャップじゃない。2年生の女の子が1年生のことを「まったく違う」と声を揃えて言っているという事実。年ごとに違う人種が現れている、そう感じる。

女の子たちの、何が一番大きく変わったか。これは誰もが言うことだけど、言葉づかい。それからマナーと、マナーというものの自分への取り込み方。そしてコミュニケーションの取り方。

俺たちとは完全なズレがある。マナーと言葉づかいは明らかに悪い。人とのコミュニケーション作りは、結果的ないい悪いはとりあえず別にして、変わってきている。

たとえば、うちは芸術の大学なのに「Aというやり方とBというやり方、どっちがいいですか?」って平気で聞いてくる。「それを考えてやるのがオマエだろ」

その子が成績や性格がいい子でも悪い子でも関係なく、そういう質問をしてくる。コミュニケーションは人間同士のものなのに、相手側の状況や心情をまるで考えずに、自分の都合で言ってしまう。

緩やかな変化は昔からあったけど、それが最近急激な変化になった。その理由は何なのだろうと考えているんだけど、社会の流れと、その社会の中から自分に必要な要素をピックアップする、その仕方が変わったからなのか。

たとえば、気になる店があっても、それが1回行って終わってしまう。2度は行かない。これには我々の世代どころか1年先輩もついていけないらしいが。新しい店ができた、一度は行ってみよう。結婚?一度はしてみよう。やっぱりマニュアル文化なのか、一度経験しておくと落ちつくのだろうか。

あきっぽさではない。彼女たちの感覚の中に、長いスパンで熟成させる感覚が落ちている。これは場を提供する側にも言えることで、一時のディスコがそのいい例だろう。俺たちの時代は横丁のタバコ屋は半永久的にあるのが当たり前だった。それを善しとする、そういう感覚については、ぼくらのような感覚はないだろう。

店と客はお互い様なのだが、「もう古い」と言い捨ててしまう理不尽さ。1年先輩たちは実は同じことをやっていながら、年が接近しているから、後輩の行動をよけい理不尽に感じてしまうのだろう。

 

今の女の子たちは女性らしさを完全に捨てている。もし彼女たちの中に、そうではない子がいたとしたら、冷やかされ恥ずかしい思いをしてしまう。もし俺が女の子らしい丁寧な言葉で話しかけられると新鮮に思ったりする。気恥ずかしさを感じる。そんな俺たちも間違っているのかもしれない。

井戸端会議のおばちゃんを嫌うけど、彼女たちはまったく同じことをしてる。自己顕示欲が強く、自意識過剰だけれども、見事にズレている。

女性は同性をシビアに観察、批判するが、男は女の子に対して異性と言うこともあって鈍感かもしれない。女性というくくりで観察をやめちゃって、結果、騙される。だから「ずるい女」なんて歌が流行ったのだろう。人間の本質の部分で観察しないから、やっぱりマニュアルに走ってしまう。

結果、女の子たちは、核の部分で人間的に大損をしてしまう。こんなこと言っても分からないかもしれないけどね。

昔的な知識の子はいる。やたらに「つくす」という言葉を使う。「私って意外につくすタイプなの」っていうやつ。心情でつくしているのではない。金品を貢いでいるだけ。

バブル期のアッシー、メッシーと立場逆転で還元(返却か?)しているのだ。これですでに実質的、金銭的な損をしているわけだ。

そんな女の子たち、自我はあっても自己はない。自我って本能的なもの、自分が生きているというところで自分が欲求するもの。自己は、欲求するものを省いていくこと。押し通すことが自我で、引くことが自己だろう。ケースによっては、引いた方が相手のためにならないのなら押し通すことで、それが自己になる。つまり周りを考えずに自分を押し出す自我しか持ち合わせていないのだ。

根拠とか理由を簡単に無視するところに問題がある。根拠や理由を考えることは、うざったいし面倒なことのようだ。贅沢な食事をおごってもらっても、高価なプレゼントをもらっても、疑問を持たない。「相手がそうしたいからいいじゃない」この台詞が一番嫌いだ。それを善しとする流れ、そんな感覚が自己ではなく自我だ。

豪華なレストランでおごってもらう理由がない。そんな高価な物をもらう理由がないから受け取るわけにはいかない。受け取らないということは、マイナスの、省いていく作業であり、これは自己だ。受け取らない女性はステキだ。

こんなこと言いながら、人のこと言ってられない自分を感じる。金品で妥協している自分を感じる。気持ちよく仕事したから金品なしでもいいというような気概が薄れてきている。相手の気持ちに共鳴したり感謝したりする気持ちに欠けてきている。そんな自分がどっかにいる。自分を戒めたい。