家って何だろう?

198月 - による mijomijo - 0 - ARCHITECTURE ART WORKS ESSAY

 

住まいの話をしよう。20代の頃から自分の家を持つなら六本木か湘南かと思っていた。六本木のマンションか湘南の一戸建てに住みたかった。とにかくミーハーにこだわって、かっこいい所に住みたかった。

六本木は街そのものが刺激的だし、いい女もたくさんいる。何よりデザインの最先端の場所にいないとデザイナーとしてダメだと思っていた。

けれどもある時、中米のことをふと思い出した。中米に行った時、もうこれでデザイナーの世界からは取り残されると思っていた。ところが中米で暮らすうち、逆に日本のことがよく見えるようになったように「湘南くらい(東京からの距離)にいたほうが、客観的に冷静に見えるのでは?」と思い始めた。

そしてもちろん湘南には海がある。豊かな自然があって、きっと、いい仕事をしていくことができるだろうと確信した。

家そのものもそうだけど、周辺の環境を含めて、自然というのは半分は人だ。直感的にここはボクを居心地良くしてくれると思った。近所には漁師もいればサーファーもいる。ミュージシャンもいる。長屋みたいだけと、「おーくん、ご飯できたぞー」と大声で呼んでくれる近所の人もいる。宅急便も預かってくれないような東京のどっかとは違う。

六本木みたいにいい店はないと思っていたら、多くないけどそんなことはない。いい店を探す楽しみがある。女の子だって湘南にはかわいい子が大勢遊びに来る。

きっかけとチャンスとの出会い。そのためには五感が必要だ。五感を働かせていると第六感が働く。住まいは、その選び方の基準が広さや築年数なんかの数字じゃいけない。人間の感覚で選ばないとだめだということがわかった。

ところで植物は何で育つと思う?栄養、日光、水の3つ。…違う。もうひとつ、風が必要なんだ。風は植物についた汚れ、ほこりを飛ばしてくれる。これは人間にもそのまま当てはまる。人間にも風が必要だ。

東京にいるときはあまり意識しなかったが、風がどんなに健康に大事か。夏、ここでクーラーをかけると息が詰まる。すっごく暑いんだけど、汗かいても、風に吹かれているほうがいい。ここに住んでそれがわかった。

多くの人たちは「これぐらいの収入だからこれぐらいのところ」、そんなアプローチをしているから、好きな物に金を全部つぎ込むような感覚がないのだろう。うらやましがられたい。女性にもてたい。そんな単純でパワフルな目的思考をキミたちも持つべきだ。

結局、一切数字の条件ではない。時間、便利さなどとは比較にならない良い生活感覚は必ずある。自分の行きたい海に近いか、どういう住みかたをしたいか、そういうものを大事にすべきだ。その視点が大切で、その視点が定まるとけっこう楽しいもんだ。

近所のどの家よりも早起きだから「漁師みたい」と言われているくらい。冬、海岸通りから海に見える漁り火に感動している俺って、なんて健気なんだろうなどと思いながら車を走らせる。

最初はラッシュを避ける目的だったが、学校までのこの片道およそ1時間は、いろいろなことを考えられる時間になった。早起きも含め、ちっともいやじゃないどころか、今では最高に充実した時間になっている。

また大学には誰よりも早く着いて、学生が来るまでの2時間で1日の仕事がほとんどできるほど能率が上がってしまう。そして自分の仕事が終われば誰よりも早く帰って、次のシチュエーションに移る。

 

東京には車では行かない。ちょっと贅沢だけど、JRのグリーン車で1時間。この間に気持ちを切り替える、とても居心地の良い時間だ。

通勤時間が短ければいいってもんじゃない。たかだか仕事場のために、自分の心地のいい場所をないがしろにしたくない。「通勤のための住まい」というスタンスは絶対にとりたくない。

たかが家、されど家。バブル経済が終わって家本来の意味がはっきりした。値段の上下を考えることは無駄なことなのだ。

住まいは「自分がいかに住むか」のライフステージだから、そのための「創意工夫」という古くさい言葉しかない。時代が「物」じゃない、ましてや宗教でもない。精神世界を語るのも違う。こんな時代から逆に実生活の中で「無駄」のおもしろさを考えていくべきだ。

生活と気持ちに潤いがなければ不便は受け入れられない。そういう一種の不便が人間らしさを育てることに、ほとんどの人は気づいていない。